大ガードの夜景 第75話  『 死の淵 』

夕食を下げたあと、じんじんは明日の部屋移動のために部屋の中の物を整理し始めた。
部屋の窓から外を見ると、民家の間から中央線の電車が走っていくのが見えた。
電車が見えるのはほんの少しなので、隣の部屋からだと電車は見えないな、じんじんは
そんな事を思いながらソファの上にまとめた荷物を載せた。

「ねぇ・・」
しばらくだまっていた京子がじんじんに声をかけた。
「なに?」じんじんが振り向くと、京子はうつろな目で、突然
「なにがなんだかわかんないの」
と、なにがなんだかわからない事を言った。
「どうしたの? 何がわかんないって?」
じんじんは手にした荷物を置くと、ベッドの方へ行き京子の左手をさすった。
京子は上体を起こして、腕を布団の上に乗せていたのだが、正面の壁を見たまま
左手の上にあるじんじんの手をまさぐるかの様に右手を移動させると
じんじんの手をグッと押さえた。
「なんか変なの・・とにかく何がなんだかわかんない・・」
京子は妙におびえている様に見えた。
面会時間が終わるのが不安なんだろう、とじんじんは思い、そのまま手をさすりながら
京子が落ち着くのを待った。

10分くらいすると京子の目線は少しまともな状態に戻った様に見えた。
じんじんは改めて「どうしたのさ」と聞いてみた。
すると、とにかく説明出来ない不安感の様なものに襲われたのだという。
不安感、とは表現したけれど、違うのだと言う。自分がそこにいるのかどうか
自分が自分なのか、そういう事がすべて宙に浮いた様な、不安定な感じになって
しまって、とにかく思考する事ができなかったらしいのだ。
壁は見えている、ベッドもじんじんの姿も見えてはいるのだが、それらが
それぞれ壁でありベッドでありじんじんである、という所まで思考が及ばない。
単に目に写っていることだけが認識される。目に写っているだけでなんだか
わからない状態になっていることも認識出来る。そんな感じで、とにかく
「何がなんだかわからない」という言葉でしか表現出来ないという。

そして京子は面会時間が終わる頃、またその状態に陥った。
「お願い、もうちょっといて、またわけわかんなくなってる・・・」
病室が個室なので、多少面会時間をオーバーしたところで迷惑にはならない。
じんじんはそれについては慣れていたし、急いで帰る必要はなかった。
しかし、京子は自分がわけわかんないことを言ってじんじんを引き止めている
という思いがあるらしく、ごめん、もうちょっと、もうちょっと、と
10分おき位に謝る様に言っていた。
京子は、とにかく一刻も早く落ち着こうとしているのだが、じんじんはあまり
そのことに気づいていない様子で、とにかく京子の気が済むまでは居よう、程度に
考えいていた。

九時半をまわった頃、京子はある程度落ち着きを取り戻した様で
「もう大丈夫みたい、ありがと」とじんじんの手を離した。
わけわかんない状態にはなるみたいだけど、どうにか
その状態に慣れたし、一人でも大丈夫、ということのことだった。
京子は本当は不安で仕方なかったのだが、無理やり自分を言い聞かせる様に
大丈夫だと、繰り返した。

「明日は引っ越しだから早めに来るよ」
じんじんはソファの上にあったカバンを持つと、そう言い、病室のドアを
静かに開けた。薄暗い廊下にカチャリという音が響く。
そしてじんじんはバスルームの影になっている京子の顔が見える位置まで
一度身体を戻した。

「ほいじゃまた明日ね。おやすみ」
「うん、おやすみなさい」

いつも通り何気なく交わされたこの言葉が、二人の最後の会話となった。

- つづく -