大ガードの夜景 第64話  『 正論 』

CTの結果を聞いてからも、京子は特に何をするでもなく過ごしていた。
仮に何かしたいことがあっても、体が言うことを聞かなくてだるくて出来なかった。

じんじんはじんじんで、風邪が完全に治りきらないままの状態で
会社をしょっちゅう休んでいた。
体調として良くないのは事実だったが精神的にもかなりまいっている様子だった。

京子の体調は秋から悪くなる一方で、危機的な感じはしないまでも
毎日毎日つらそうな顔をしている。
愛妻がつらそうな状態にあれば、どうにかしてあげたいと思う訳だが
直接の原因をとりさってあげることは出来ないし、小春の事もあって
体力的に自分も目一杯な状態。そのままじんじんもつらそうな顔つきになって
しまっていた。

更に、自分の体調、病状を受け入れていても「あきらめてないよ」という京子に
どう接するべきか悩んでもいた。
また、会社なんて行ってていいのか、という思いも持ち上がってきていた。
落ち着いて考える時間でもあれば良かったのかもしれないが、そういう時間が
取れる状況にはなかった。

京子が、自分の死はそんなに遠くないと認識していながら
「あきらめてない」「だからこそ普通に過ごしていたい」
と言っていたのには訳があった。
もし、死が近い、という事を全面的に受け入れて、行動を変えるという事をすれば
無意識のうちに身体も「死ぬんだ」と理解して死に向かって予定(?)より前に
機能を停止し始めてしまうだろう、と思えたからだった。
自分に言い聞かせるだけでなく、自然にふるまうということが
身体に「まだだよね、まだだよね」と言わせ、働き続けさせる事につながると
考えていた。
更に、そういう理屈を考える事すら、身体に死を気づかせてしまう、と
余計なことは考えない様にしていたのだった。

じんじんは、その理屈を知らずにいたが、京子が自分に言い聞かせる様に
あきらめてなんかない、と言っているのを見て、体力的に余裕が無かった
のもあったが、意見せず静観していた。

しかし、丁度その頃、じんじんが読んだ本には、その考え方と正反対の意見が
理詰めで書かれていた。
まず最初に死が近い事を真っ正面から受け入れるべきで、それを認識したなら
どうでも良い事は思い切って切り捨て、しなければならないこと、自分が大切に
している事からやっていくべきで、もしやり残しがあるまま世を去る時が来れば
「あんなことしている時間にこっちをしていれば良かった」と悔いるのは必然だ
と書かれていた。また、人はみな死ぬわけで、限りある時間を使っていく
という意味ではがん患者でない人も同じであって、その違いはリミットが
認識出来る範囲にあるか無いかの違いだけだと、という。
がんで死が近いから優先順位考えて行動する、のではなくて、もともと病気でなくとも
そうするべきなのだ。
死が近い事を、つらさを乗り越えて受け止められれば、切り捨てるべき事や
しなければならないことの順位づけも、病気でない人のそれに比べて
よりダイナミックに出来る分、短いかも知れないけれど充足感に満ちた
時間を過ごせ、死を迎えるにあたっても悔い様がないはずだ、という事だった。

精神的に落ち込んでいるじんじんにとっては、何か違和感を覚えても
その意見に対して「それは違う」という意見を言える力が無かった。
その本に書かれていることはある意味正論で
「そうしていない私らは悔いが残る事がわかっていながら、めんどくさい、つらいこと
から目を背けているナマケモノ社員みたいな存在なのか?」
と、じんじんは思い悩んでしまった。
「そうじゃん、いつもナマケモノ社員してるじゃん」
と自分で突っ込むことすら出来ないじんじんは、やはり病んでいるとしか
言えなかった。
しかし、実はそこで突っ込めれば、そこから答えが出るはずの事だった。

- つづく -