大ガードの夜景 第38話  『 取るという事 』

ある病気に関して治療するというと、患者当人でさえその治すべき病気だけに
気が行ってしまうものだが、大きな病気であれば、大きな手術であれば、そのコトだけ
では済まなくなるというのが普通だ。
とうぜん臓器を取る、という事から直接的に変化する部分もあるし、手術の過程で
それとは直接関係無い部分に影響が及ぶ事もある。その事を前もって認識できていないと
術後苦しんでいる時に、上乗せして「こんな苦しみも・・」となるから大変だ。
京子の手術の場合、術後に起きるであろう事は、主治医との会話で
ある程度わかっていたのであるが、それらは当然京子にとって初体験となる「苦しみ」であり
実際どうなのかは、未知数であった。
誰にでもすぐわかる事、としては、卵巣を取った事に付随する事柄。
これは女性の更年期障害の事を考えるとある程度はどうなるのか予想がつく。
ただ一般の更年期障害と違ってホルモン量は突然100→0の変化となるのであるから
精神的にもつらい事は予想できた。
京子としては、それにプラスして「メス」でなくなる事で、じんじんとの関係
というものがどう変化するのか、それが心配だった。
もちろん取る前から気にはなっていたが、手術そのものに気を取られていて
改めて考えるという事はしていなかった。
それが、取る物を取ってしまい、サテ、となった時に、ふとアタマをよぎったのであった。
京子は、人間が「愛」と「性」を本当の所どう感じているのかが、きっとはっきりと
わかるのだろう、と考えていた。
京子も「相手を欲しいと思う気持ちはホルモンのイタズラにすぎない」
という基本的な部分は理解していたので、したい気持ち、というのは基本的に
なくなるのであろう、とは予想していた。
しかし相手のじんじんは「ホルモンのイタズラ」で自分を欲しがる事は今までと変わりない。
それに対して物理的にも子宮とともに膣の一部も失い、そして濡れる事も無い自分が
どう行動出来るのか、メスでなくなった自分に対して
じんじんの気持ちはどう変化するのか、そこが心配であった。
しかし京子は手術の前にじんじんが残してくれた言葉を信じて、まずは病気から
立ち直ることに集中しよう、と、それについて考える事をやめた。
病院から脱出できなければ、じんじんのいる家に元気に戻らなければ、そんな心配は無意味
なのであるから・・・
そういったいわゆる直接的な事の他に、大きな事柄として排尿障害があった。
子宮を取る過程で膀胱神経を切る必要があり、それによって膀胱の満杯度がわからなく
なってしまう。つまり排尿制御がうまく出来なくなってしまうのだ。
別の言い方をすれば、残尿感無しに小水を絞り出さなければならないのである。
これはある程度トレーニングで問題無い残尿量にまで減らせるという事ではあったが
実際の所どの程度回復するかは不明だった。
そしてそういった目の前の事柄と戦いながら、取り去ったリンパ節の検査結果次第では
最終ラウンド「放射線治療」が待ち構えているのだった。
しかもそれは「やらないよりはマシ(かも)」程度の期待感しか無い上に放射線障害が
予想されるというやっかいな物、なのだった。
そして・・・西洋医学的には、もうやれる事は無いに等しいのであった。
手術前は「まだまだ・・・」という気持ちが強かった京子であるが
手術という大仕事が済んでしまうと「まだまだ」というのは病気に直接関係しない苦しみに
関する事がほとんどで、もしも「リンパ節転移」という事であれば
実はもう崖っぷちに立たされているのだと気づいた。
そうなれば、その崖は「東洋医学」「民間療法」という親しみの無い物を使って降りるか
自然治癒力というフリークライミングの様な方法で進むしかないのだ。
西洋医学という大きな自信にあふれた導きに従って進んで来た場所が
実は単なる崖っぷちだった、という事は、今更ながら医学の限界という物を感じずには
いられない京子であった。
もしかしたら、どっちにどう進もうと崖しか無かったのかもしれない。
とすれば、西洋医学は、その崖への最短距離を患者に押しつけたにすぎなかったのだろうか。
崖しか無い場合、それは患者にとってどういう意味があるのか。
崖しか無いのか、橋があるのか、坂で降りられるのか、下に水があって飛べるのか
すべて時間という一方通行の果てに隠されて、どれかを進まなければわからないとすれば
「先を見せる」という意味はあるのかもしれない。
その結果が「崖だっただけ」なのかもしれない。
しかし、小春という存在のおかげで、その事実は京子にとって「あきらめ」にはつながらず
「病気に立ち向かう気力」へとつながったのだった。

-つづく-