大ガードの夜景  『 あとがき 』

この話を書こうと思ったのは、ずっと周りで応援し助けてくれていた多くの友達に
自分たちがどういう気持ちで、どう過ごしてきたのかを知って欲しい、という事から
でした。内容としては、ほとんど生活上の出来事をそのまま粗筋で書いただけ
みたいなもので、読み物としては良いデキのものではありません。
それでも、ほとんど事実という事もあって読みごたえはあるものになったと思います。

話の中で娘の小春についてはあまり触れていませんが、小春の事にまで言及し、かつ
話を発散させずにまとめる文章が書けなかったので意図的に書かない様にしました。

結局、書き終わる迄に5年近くかかってしまいましたが、時間をかけたことに意味が
あるわけではなくて、単に忙しくてなかなか書けなかった、というだけの事です。
再婚と絡んで書くのがつらくなったとか、そういうことではありません。
(心配してくれた人、どうもありがとう。)

がん、という病気では、ある個人の具体的な経過は、他人にとって本当に参考程度に
しかならないと思います。出来る部位や悪性良性の違いで、伴う苦しみから、使う薬
手術の内容、すべて異なるからです。
それでも、がんにかかれば、誰もが命について考えると思います。
そういう点では、一つのケースとして、この話が参考になるかもしれません。
ただ、この話で紹介した価値観や考え方は、あくまでも私達のものであって
それが他の人にそのまま当てはまるということはありません。
大切なのは、この人たちはこう考えこう行動した、じゃあ自分たちはどうするのか
を、しっかり考えるということです。
この話は、それを考える上での参考にはなっても答えにはならないということです。
「そんなのあたりまえじゃん」というなら問題ないのですが・・・

あと、看病する側の事についても一点触れておきたいと思います。
看病する側は、大した事をしていない様で思いの外疲れが溜まっている、というのは
良く言われることです。
長期に渡れば、やさしくしてあげようという感覚もマヒしてしまいがちです。
また、マヒしていることにも気づけない事が多いと思います。
私も、それで京子が亡くなる前日の「おにぎりが欲しい」という希望に応えることが
出来ませんでした。
これは仕方が無い事なのかもしれませんが、マヒしていれば、どう後悔する事に
なるか実話に基づいて知っていれば、皆さんがその立場になってしまった時
意識的に気持ちを修正出来るかもしれないと思い、おにぎりの話を書きました。
また、この事を覚えていれば、もし皆さんがベッドの上の人となってしまった場合でも
看病してくれる相手にやさしく出来るのではないかと思います。

話には書いていませんが、おにぎりの買い物を早々に引き上げた理由の一つに
「またこんど車で走って探してみよう」というのもありました。
しかし「今度」は無かったのです。
このことは後悔しきれない出来事として残ってしまいました。
後日、通勤の途中、青梅街道沿いに「おにぎり」のノボリを発見した時のショックは
言葉では言い表せません。
みなさんにはこういう気持ちを味わって欲しくないと思い、本文とは別に
あとがきに書いておく事にしました。

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今のところ病気と関わりが無い人にとっても、この話が
「生きるということの意味」や「幸せ」について考えるキッカケやヒントになれば
幸いです。

長い間ここをwatchして頂いた皆さん
私に幸せになれと言ってくれた京子
今私を支えてくれているたなちゃん、小春、鼓美

本当にありがとう。
そして、これからもよろしく。

2004年8月25日 じんじんさん