大ガードの夜景 第74話  『 おにぎり事件 』

三月に入ったものの、陽が出ない日はまだまだ寒かった。
その日も朝から雨が降っていて、今にも雪になるかという感じの寒さだった。
じんじんは車で行かなきゃ、と病院の駐車場が空いている午前中に病院へ行った。

昼前、なにやら病室の前の廊下が騒がしい。
どうも隣の病室の人が退院する雰囲気だ。

「隣、あくみたいだね・・・」
じんじんはドアの外の様子を見ながら京子にそう言った。
「引っ越し出来る様に言っとこうか?」
「そうね。使わないバストイレのために5000円はもったいないもんね」
隣の病室も個室なのだが、バストイレが無いということ、で京子のいる部屋より
5000円も安かった。おそろしくイイカゲンな価格設定である。

じんじんがナースステーションに行って聞いてみたところ
隣は明日退院で「あとに誰か入る予定もないし明日掃除終わったら移りますか」
と、すんなり話がまとまった。

午後、TVで「こんにゃく畑」のCMが流れ始める頃、京子は突然「おにぎりがたべたい」
と言い出した。
じんじんは「またか・・」と思った。

京子はここ何日も病院食には、ほとんど手をつけていなかったが、それは食欲が出る時間と
食事時間がズレているというのが大きな理由だった。
元々体調が悪くて食欲が無い上に、栄養のある点滴をしているからか、空腹感も無い。
そんな所に「時間」で食事を持って来られても食べられるはずがなかった。
だから、食事時間とは関係なく、一瞬頭をもち上げる食欲に合わせて食べたい物を
じんじんに頼んでいた。そういう一瞬の食欲を逃せば、何も食べずに一日を終えてしまう。
しかもじんじんが希望の物を買ってきた時まで、その食欲が持続していなければ
結局食べられない。実はそういうことの方が圧倒的に多かったのだった。

「で、どのおにぎりがいい? そこのサンクス行って買ってくるよ」ため息まじりに
じんじんはそう言うとダウンコートを手にした。外は朝からの雨が続いていて、風もある様子だった。

「コンビニじゃなくて、伊勢屋のやつ・・・」
「へ?」じんじんは予想外の事を言われて、動きを止めた。

確かにコンビニのおにぎりは、おにぎり屋さんで売っている賞味時間の短いものとは
どこか味が違う。食欲が無ければ、そういう物を欲しがるのはわからないではなかった。

「・・・」
じんじんは頭の中で、手作りおにぎりを売っていそうな店を考えてみた。
杉並に越してきてから、どこかで見た覚えはあるのだが、なかなか思い出せなかった。
「とにかく探してみるよ、高円寺の商店街ならあるかもしれないし」

じんじんが外に出ると、雨は病室の窓からの見た感じより強く、靴はあっというまに
濡れてしまい、傘を持つ手には冷たい風と雨粒がぶつかり痛いくらいだった。

高円寺のアーケード街までの道、じんじんは「どこかで見た」おにぎり屋を思い出そうと
考えていた。
しかし雨の不快感から、頭の中には「たとえ思い出しても行きたくない」という
無意識の壁があって、思考回路はその壁の手前で無意味にグルグル考えているだけ。
じんじんは、思い出せないままアーケードに着いてしまった。そして傘を畳むと
じんじんの頭は「とにかくこの中で買い物を済ませたい」という思いで一杯になった。
この中に目的の店があるかどうかもわからないのに、だ。
じんじんは左右を見、そこがアーケードのほぼ北の端だとわかると、南に向かって
のろのろと歩き始めた。

アーケードは思ったより長かった。が、それらしき店はなかなか現れなかった。
駅から離れる方向なので、人はだんだんまばらになり、開いている店も少なく
なってくる。10分位は歩いたであろうか、いいかげん疲れたな、と思った時
まさに「伊勢屋」という店構えの和菓子屋が目に入ってきた。

「あたっ!」じんじんは走って店に近づいた。
薄暗い店のショーウインドーには「すあま」だの「桜餅」だの「みたらし」だの
そういうものが漆塗りの長方形のお盆に載せられて並び、それに混ざって
「赤飯おにぎり」「いなり」の姿があった。が、普通のおにぎりは置いてなかった。

「むむむ・・無いか・・」
一応アーケードの端まで見て来ようと、じんじんはそのまま店の前を通過したが
前を見ると、もうアーケードの終点が見えていて、その先は雨空の下に住宅地が
広がっているだけだった。
「あそこだけか・・・」
じんじんは、アーケードの切れる所まで行き、雨の落ちてくる真っ白い空を見つめていたが
外から吹き込んだ冷たい雨粒がメガネに当たると不機嫌な顔で元来た方へと引き返した。
そしてさっきの店の前まで戻り今度はショーウインドーの赤飯おにぎりを見つめた。

「あそこに並んでいるおにぎりは京子が欲しているものじゃぁないな」
直感で判ってはいた。

じんじんの頭はまた、どこにおにぎり屋があったかをグルグルと考え始めた。
「どっかでノボリ見たんだけど、どこだったかなぁ・・・
荻窪のタウンセブンにあったかなぁ・・・あそこなら雨に濡れずに行けるから
行くだけ行ってみるか・・・」
しかしじんじんは、寒さと雨と疲れでもうウンザリしていた。
この長いアーケードを高円寺駅まで戻って、荻窪まで電車で行って、もし無ければまた
ここまで戻ってこなければならない。しかも、戻って来た所でこの赤飯おにぎりは京子が
欲している物ではないから食べてもらえない可能性はかなり高かった。

そして「食べてもらえない」というキーワードに続いて、今まで希望通りの物を
買ってきても、食べてもらえたことはほとんど無い、という事実を思い出してしまった。

すると、じんじんの考えは
「京子は赤飯好きだし、食べられない事もないかも・・・この『赤飯おにぎり』で
カンベンしてもらおう」と、最初の直感で思った事を根拠の薄い理由でつぶし
とにかくこの煩わしい「雨の日の買い物」を終わらせる、というところに、ストンと
落ちてしまったのだった。
何がどうカンベンなのか・・・じんじんはどれだけ意味のない行動をしているのかすら
気づけないでいた。

「伊勢屋はあったんだけど、おにぎりは赤飯しかなかったよ・・・」
じんじんは買ってきた赤飯と稲荷の入った包みを京子に渡すと、奥のソファに
ドッと座り込んだ。
京子は包みをあけたものの、赤飯も稲荷もほとんど口にすることなく夕食の時間を
迎えてしまった。

京子は別に伊勢屋で売っているものが欲しかったわけではなかった。
コンビニのあの妙に白い、妙につやつやしたおにぎりでない、ごく普通のおにぎりが
食べたかった、ただそれだけだったのだ。
じんじんとしては、店の探しようなんていくらでもあるし、思い出せないにしても
帰って京子母にちょこっと作ってもらうとか、やり方はいくらでもあるはずだった。
しかし、その時のじんじんには、そういう認識すらなく
ただ、できるだけのことはやった、という思いだけが頭を支配していた。

ほとんど手をつけていない夕飯を片づける頃、外の雨音は聞こえなくなっていた。

- つづく -